鉄山誌 Vol.2 ― 大甲鳳梨罐詰(パイナップル缶詰)
台湾人の越境的交流の経験――許天徳と頭山満の友情
文:李鎧揚
十九世紀末から二十世紀初頭にかけての台湾は、その歴史のうちでも最も激しい変化を経験した時代だったといってよい。一八九五年、清帝国が戦に敗れて台湾を日本に割譲すると、島の人々は大規模な近代化の歩みへと踏み出すこととなった。台湾の人々は当初、日本という新たな統治者に少なからぬ不満を抱いていたが、時を経るにつれ、島内の漢人による抵抗勢力は、一九一〇年代の中後期にはすでに姿を消していた。一九二〇年代に入ると、衛生面と制度面の安定にともない、台湾人は島内を移動する機会が増えただけでなく、大日本帝国の勢力拡張に連れて、その足跡もしだいに華中・華南や東南アジアへと伸びていった。一九三二年に満洲国が成立すると、相当な割合の台湾人が、この特別な「王道楽土」へと渡っていったのである。
官の政治勢力ばかりではない。多くの非官僚あるいは半官半民の日本人もまた、日本の勢力拡張のもとで外へと進出する道を手にした。こうした日本人の多くは、江戸時代の武士階級の出身であった。明治天皇が「四民平等」を布告したことにより、武士はかつての特権を失う。これらの武士のなかには、反抗運動に加わって滅ぼされた者もいれば、従軍によって自らの「立身出世」の道を切り開いた者もいた。さらに、ごく一部の武士の末裔は、国内の政治情勢の変化に目を向け、政治結社という形で自らの主張を唱え、やがて政府の無視しえぬ一つの勢力となっていった。福岡の出身で、近代日本における最も重要な右翼政治指導者であった頭山満は、まさにそうした人物である。彼は当初、板垣退助の自由民権運動に加わり、政府と対立する側に立っていた。のちに平岡浩太郎・箱田六輔とともに設立した「玄洋社」の綱領は、その第一条が「皇室を敬戴すること」、第二条が「国家を愛重すること」であった。これは、頭山らがかつて反政府の立場をとったのが理念の違いゆえであって、維新後の政治改革そのものに反対していたわけではないことを物語っている。
頭山満と内田良平らは「大アジア主義」を唱えた。アジアの他の国々と連携し、欧米列強の侵略に対抗しようとする方針である。こうした理想は、一八八〇年の「興亜会」、そして一八八五年の福沢諭吉「脱亜論」が提唱されて以降、芽生えはじめ、のちの東邦協会・東亜同文会・黒龍会、さらには南洋協会の成立にいたるまで、同様の思想がそのなかを貫いているのを見て取ることができる。頭山満らの玄洋社、そしてのちの黒龍会も、その運動団体の一つであった。頭山らは玄洋社の時期から、中国の孫文や朝鮮の金玉均との連絡を試み、資金援助を提供しようとした。内田良平はさらに武田範之や大崎正吉らを派遣して「天佑俠」を組織し、朝鮮の東学党農民の抵抗運動に加わって、抵抗する農民の側に立った。「黒龍会」という名もまた中国に関わるもので、黒龍とは黒い龍を指すのではなく、「黒龍江」を指している。頭山らの行った活動は、必ずしも当時の日本政府の意志を代表するものではなかったが、実際にはその結果はいずれも日本の側に有利に働いた。加えて、頭山満は終生公職に就かぬことを標榜していたとはいえ、犬養毅や近衛文麿といった近代日本の政治家たちは、いずれもこの主義に賛同し、彼と親交を結んでいた。こうした「側翼」の団体は、政府が非公式の活動を進める一助となりうる一方、ひとたび事が起これば、日本政府はただちに関係を断ち切って関与を否認できる――きわめて好都合な存在であった。それゆえ、近代中国の重要人物を写したいくつかの写真のなかに、頭山満や宮崎滔天と、孫文・蒋介石・戴季陶・胡漢民との交流を見出すことができる。孫文の最後の訪日もまた、頭山満が接待にあたったものであった。頭山はさらに、孫文の紹介によって自由インドの指導者ボース(チャンドラ・ボース)と知り合い、日本政府がイギリスの圧力に屈して彼を追放しようとした際には、ひそかに援助を与えた。ボースはのちに事情あって一九四五年八月十八日に台北で病没したが、ガンディー(モハンダス・カラムチャンド・ガンディー)、ネルー(ジャワハルラール・ネルー)と並んで、近代インドの最も重要な政治家の一人に数えられる。
植民地台湾の視点に立ち返ろう。近代の中国、ひいてはアジアにおいてかくも重要な役割を演じた頭山満が、いかにして台湾中部の地方の一族と知り合うことになったのか――これは興味深い問いである。台湾総督府にとって、頭山満のような人物は、板垣退助が一九一〇年代に台湾を訪れたのと同じく、公職にこそ就いていないものの、国内できわめて重要な政治家であった。ひとたび台湾で何らかの発言をしようものなら、収拾のつかぬ事態を招きかねない。一九三八年六月二日、《台湾日日新報》に頭山満の来台を伝える記事が載った。それによれば、頭山満は大甲郡の富豪・許天徳の招きを受けて二週間ほど来台し、日月潭を見物し、また彰化八卦山の林姓の士紳の家を訪ねる予定だという。しかしこの報せは、のちに頭山満の親しい友人によって否定された。当時の頭山は静養中であり、来台の計画などないというのである。訪台の計画はなかったとはいえ、新聞報道の記載から見るに、頭山満と外埔の許天徳との交わりは、もっと早くにさかのぼるはずである。
現在に伝わる許家の文書のなかに、許天徳の著した《眉山文稿》一冊が残されている。そこに、両者の交流の手がかりを見出すことができる。その記した「故長男雲章行状」のなかで、許天徳は、長男の許雲章が諸子のうち最も聡明で、人情の機微にも通じていたと述べている。雲章が十八歳で台中商業学校を卒業したとき、許家の営む鳳梨(パイナップル)工場は、ちょうど総督府の既定方針の影響を受けて、合併を迫られようとしていた。許雲章はあれこれと思案を巡らせるなかで、おりしも日本に留学していたその身分を生かし、頭山満の一族と接触を図った。彼はこう記している――「鳳梨罐頭、日人に圧迫せられ、勢ひ強占せんと欲す。既に抗拒すること年あり、是に至りていよいよ甚だし。反逆を以て擬せられ、ほとんど瀰天の禍を被らんとす。兒乃ち愾気もて暴秦に入り、大俠頭山翁の門に救ひを乞ふ」と。許天徳の子である雲章・雲龍・雲岑はいずれも日本に留学しており、許雲章がどの学校に学んだのかを確かめる確かな資料はないものの、許雲章の年齢は頭山満の子である頭山秀三・頭山泉と近く、後輩を通じて交わりを結んだ可能性が高い。許家の日本統治期の写真のなかにも、許雲章その人と頭山満一族との記念写真を見ることができる。許雲章の子孫によれば、許雲章は生前、あるとき頭山満の家を訪れた際、邸宅の玄関である女性に出くわし、のちに頭山泉から知らされて、その女性が名だたる「川島芳子」であったことを知った、と語っていたという。
許天徳の《眉山随筆》のなかには、彼と頭山満との交流について、より細やかな記述がある。彼は、壮年のころに鳳梨産業へ身を投じたと述べている。彼が鳳梨事業に乗り出した時期は、ちょうど三兄の許天奎が外埔庄長を務めていたころにあたる。その事業が兄の政治的勢力のもとで、めざましく発展していったであろうことは、想像に難くない。一九三〇年に許天奎が庄長を辞すると、官の側は許天徳に後を継がせようとしたが、彼に拒まれた。一九三五年に地方制度がふたたび改正され、もとの官選協議会員が半官半民へと改められると、州・郡の当局はあらためて許天徳に声をかけたが、またしても彼に拒まれた。二度にわたって公職就任を拒んだことは、官の側にいくらか好ましからぬ印象を残し、果ては人を遣って彼を尾行させ、その行動を探らせるほどであった。その後、総督府の政策によって鳳梨産業を単一の会社にことごとく統合しようとした際、許天徳が三たび官の意志に背いたことで、彼は大きな圧力を受けることとなった。《眉山随筆》の記載によれば、上は州・郡から、下は警察にいたるまで、しきりに彼へ鳳梨事業を速やかにたたむよう要求し、果ては投獄するぞと脅しさえした。なかでも当時の大甲郡守・横山竹男(一九三六年十二月より着任)が彼に与えた圧力は、とりわけ大きかった。彼が官の圧力を逃れて東京へ赴いた際には、横山はわざわざ東京まで追ってきて彼を台湾へ連れ戻そうとしたが、幸いにも頭山満が助けの手を差し伸べたため、横山はやむなく台湾へ引き返した。許天徳は牢獄の災いこそ免れたものの、そのために台湾へ帰ることを恐れ、長らく東京に滞在した。日本に滞在するあいだに、鳳梨罐頭は結局のところ官有に収められることを免れなかった。許はしばしば帰郷の念を抱いたが、どうしても叶わず、最終的には許雲章と相談のうえ、頭山満が台湾総督に働きかけてくれたおかげで、無事に台湾へ帰ることができた。台湾へ戻ったのち、官の側はふたたび押しかけてきて、皇民化に応じて改姓名するよう迫ったが、許天徳はなおも頑として拒み通した。それでも、官の側はそれ以上は難癖をつけてこなかった。
許家の私文書に残る写真から見るに、頭山満は最後まで台湾に来ることはなかった。だがその子である頭山秀三・頭山泉は、許家の許雲陽・許雲章らと交流をもっていた。写真には明確な日付の記載こそないものの、写真から判断すると、頭山一族の台湾来訪は「植物愛」の碑文と関わりがあるようである。許天徳は漢学の素養が深く、彼も許天奎も地方では名の知れた文人であった。頭山満もまた書道において高い造詣をもち、大稲埕の出身で東京に寓居していた書家・曹秋圃を招いて、書を学んだことすらあったという。許家には、頭山満・頭山泉が許天徳・許天象に贈った書画が残されている。両者は、かつての林献堂と梁啓超のように、「文を以て友と会した」のである。頭山満は、許天徳が鳳梨工場を営んでいることを知ると、「植物愛」の三字をみずから揮毫して旧友に贈り、許天徳はその石碑の裏に記念の文を記した。のちの、一九三八年の頭山秀三と頭山泉の来訪は、「植物愛」石碑の建立と密接な関わりがあったにちがいない。その年、頭山秀三は「五・一五事件」ののちに仮釈放されたばかりで、ほどなくして天行会会長の肩書きをもって台湾を訪れたのである。 こうした交流の足跡をたどってみても、許天徳と頭山満の往来の脈絡を、余すところなく再構成することはできない。しかしそこから、かつて歴史上の大人物たちが、じつは台湾と密接な関わりをもっていたことに気づかされる。頭山満は孫文・胡漢民・蒋介石らと交わるかたわら、植民地台湾の一族である許天徳とも往来していた。それは、大いなる歴史の奔流のなかから、もう一つの角度を通して近代東アジア史の展開を見つめなおさせてくれるのである。
自ら退学した五男坊
許天徳(一八九三―一九六〇)は、台中外埔の鉄砧山の麓の人で、許家の来台二世祖・許其琛の五男である。許天徳が生まれてまもなく、台湾島は日本の植民地政府の手に渡った。彼が二十歳になるまでに経験したのは、日本人による台湾人への抑圧であり、その間には、台湾島内の多くの地域で、抗日事件のために日本人に虐殺されるという惨状をも耳にしていた。
彼はかつて総督府国語学校に入って学んだ。在学中、許天徳は漢文の書物を好んで読んだ。それを学校の者に見つかると、彼は叱責を受けた。そのため、退学を選んだのである。許天徳は祖国へ内渡しようとも考えたが、日本の警察にしばしば目をつけられていたため、その計画も結局はうまくいくまいと思い、実行には移さなかった。
大甲鳳梨
大正十三年(一九二四年)、外埔の許黄大宅が分家した際、最も年若い許天徳は、この財産分けで鳳梨園を得た。許天徳の父や兄たちは、清朝統治期に土地の開墾と米穀の売買によって身代を築いたが、鳳梨罐詰の製造業は、許家が実業界に踏み出す第一歩であった。
一九二〇年代、台湾島では鳳梨罐詰の販売が急速に伸びていた。参入の敷居が高くないうえ、相当な輸出額が見込めたため、植民地では本島・内地を問わず実業家が次々とこの産業に加わり、そのなかには許天徳も含まれていた。彼は当時としては珍しく単独出資で「大甲鳳梨罐詰商會」を設立し、眉山で鳳梨農場を営んで工場へ原料を供給し、鳳梨罐詰を製造して輸出に充てた。
舵を取る者
日本側との緊張した関係にあった弟とは異なり、許天徳の三兄・許天奎は、一族の存続のために、植民者の官僚体制に入る道を選び、一九二〇年代を通じて外埔庄長に任じられていた。この時期はまた、許天徳が事業のうえで意気盛んであった日々でもあった。
昭和二年(一九二七年)十月一日
許天徳は二列目の中央、サングラスをかけている人物
大甲鳳梨の新たな血
許雲陽(一九一三―二〇〇八)は、台中外埔の鉄砧山の麓の人で、日本の早稲田大学を卒業した。その父は許天象、すなわち許天徳の四兄である。許雲陽は長男にあたり、台中第一中学校を卒業したのち、早稲田大学の政治経済学部に進み、昭和十一年(一九三六年)に結婚式を挙げた。許天徳も当時、家族を連れてこれに出席している。結婚ののち、許雲陽は無事に卒業した。
左より許雲陽、許雲堂(三弟)、許雲従(四弟)、許黄秀鸞
帰台後、許雲陽は「大甲郡産組敬神生活指導者錬成会」に参加した。この組織は、庄農会の総幹事や理事長が定期的に集まり、精神鍛錬を励行し、忍耐の鍛錬を通じて品格を高めようとするものであった。同時に彼は「台中州産業組合」の幹部も務め、さまざまな方法で自らを高め、人脈を広げていった。
外部の団体のほかにも、許雲陽の一族は強固な人間関係の網を築いていた。当時の許家は、叔父である許天徳の営む大甲鳳梨罐詰商會を筆頭とし、家運はまさに日の出の勢いにあるかに見えた。
だが、暗い潮はすでに水面下でうごめいていた。このころ、大甲鳳梨は新任の郡守からの圧力を受けはじめており、ちょうどこの時期、許雲陽は一族の鳳梨罐詰商會に入って働きはじめたばかりであった。

許雲陽は後列の左から四人目
許雲陽は後列の右端
危機
鳳梨事業は許天徳を富ませたが、数年ののち、それは次第に一つの危機へと転じていった。
昭和五年(一九三〇年)に許天奎が庄長を退いたのち、官の側はもともと許天徳を後任にと意中していたが、彼に丁重に断られた。一九三五年、官の側はあらためて許天徳に、改制後の官選協議会員に就くよう招いたが、またしてもやんわりと拒まれた。この二度の拒絶により、許天徳は官の目に問題人物として映ることとなった。これ以降、許天徳が他所へ出入りするたびに、その行動を監視する者がついた。
昭和十年(一九三五年)六月、台湾合同鳳梨株式会社が設立された。これは総督府の既定政策であり、全台の鳳梨工場を買収・統合して単一の会社にしようとするものであった。設立後、全台七十八社のうち七十七社の鳳梨工場が、この会社に統合された。唯一妥協を拒んだのが、大甲鳳梨罐詰商會である。許天徳は、工場を台湾合同鳳梨株式会社に売ることを拒み、独立経営の権利を保とうと望んだ。大甲鳳梨罐詰商會は、これ以後、総督府の目の上のこぶとなった。
同年(一九三五年)、許天徳の三兄・許天奎が逝去し、許家の日本統治期における地方政治への影響力も、一区切りを迎えた。
大甲郡守・横山竹男
全台の鳳梨工場が合併させられるなか、ただ大甲鳳梨一社だけが抵抗を続けていた。これ以後の数年間、府・州・郡および地方の警察は、さまざまな手段で文攻武嚇を加え、果ては許天徳を罪に問うて投獄するとまで脅した。その圧迫のもと、許天徳は東京へと逃れた。
昭和十一年(一九三六年)十二月、横山竹男が大甲郡守に就任した。頑として合併を受け入れない大甲鳳梨罐詰商會は横山竹男を苛立たせ、彼はあらゆる手立てを尽くして許天徳を屈服させようと決意する。横山竹男はかつて大甲を発って東京まで許天徳を追ったが、のちに頭山満に阻まれて、これを取りやめた。
許天徳のいう「大俠頭山翁」
頭山満という人物については、五・一五事件から語り起こすことができる。五・一五事件は、昭和七年(一九三二年)五月十五日に日本帝国海軍の青年将校が起こした未遂のクーデターであり、これに加わった者のなかには、日本帝国陸軍の士官候補生や、血盟団事件の生き残りもいた。頭山満が代表する日本の右翼勢力は、かねて練ってきた暗殺計画を実行に移し、当時の日本総理大臣・犬養毅は官邸で乱射されて命を落とし、世界を震撼させた。
頭山満には二人の息子があった。長男は頭山泉、次男は頭山秀三である。頭山秀三は五・一五事件の裁判において、刑を言い渡された。
時間軸を十九世紀から二十世紀への変わり目までさかのぼると、頭山満に関わる名高い暗殺には、李鴻章や伊藤博文らの遭難といった事件も含まれている。
頭山満は東アジアの革命家たちと親交を結び、中国の孫文、韓国の金玉均、インドのボースは、いずれも頭山満からさまざまな形の援助を受けた。この白髪の老翁の行動が、東アジア史全体の展開に影響を及ぼしたといっても過言ではない。
頭山満は中央の、白い髭をたくわえた人物
友誼の石
昭和十二年(一九三七年)の春、頭山満と許家の友情を象徴する植物愛碑が、許天徳の邸宅に建てられた。石碑には植物への慈しみをやわらかく綴った言葉が篆刻されていたが、それは植民地の官の心にのしかかる大きな石のように、当時の植民地政府に憚られるものであった。石碑に刻まれなかったのは、植民者と被植民者、そして母国の有力者とのあいだの、微妙な関係であった。
同年、盧溝橋事変が勃発し、日中戦争が始まった。台湾人がなお祖国と呼んでいた地が、一瞬にして敵国となったのである。
頭山秀三、調停のため来台か?
昭和十三年(一九三八年)の台湾日日新報には、頭山満が来台するという憶測と、それを打ち消す記事が数篇載っている。この年の六月、林献堂の日記には、頭山満と許天徳の交流についての記載がある――
林清經三時餘來訪、述大甲許天德之鳳梨工場不肯賣渡合同會社、因是受當局之壓逼、其製品欲輸出、船舶不肯為之載、甚至欲取消其製造權、於是乃拜託頭山滿翁為之盡力、諸事皆能如意、從此每年利益約近百萬円云。 ——— 林清経が三時すぎに来訪し、こう語った。大甲の許天徳の鳳梨工場が合同会社への売り渡しを拒んだため、当局の圧迫を受けることとなった。その製品を輸出しようとしても、船舶は積み込もうとせず、果てはその製造権を取り消そうとまでした。そこで頭山満翁に頼んで力を尽くしてもらったところ、万事が思いどおりに運び、これより毎年の利益はおよそ百万円近くにのぼるという。
同年十一月二十六日、頭山満の次男・頭山秀三が大和丸に乗って基隆港に上陸し、一度は台湾総督と面会した。
昭和十三年(一九三八年)十一月二十六日
【基隆からの電話】郵船・大和丸は二十五日午後三時に基隆港外に到着した。船には乗客七百十名があり、著名な者としては、常盤松刀剣研究所の頭山秀三氏、東海自動車取締役の原吉太郎氏、賀田組取締役の波多野岩太郎氏などがいた。五・一五事件の当時、いわゆる民間の大物であった頭山秀三氏は、台湾に多くの友人をもつ。秀三は渡台後、一度は台湾総督とも面会し、談話を交わした。秀三にはとくに任務はなく、ただ十日ほどかけて視察したのち帰る予定だという。刀剣などもほんのわずかばかりを携えて来台したにすぎない。
その十日間の旅のなかで、頭山秀三は外埔の許家を訪ねた。許天徳はわざわざ別館を一棟建てて、頭山家の人々をもてなした。彼らは鳳梨園で鉄砧山を背景に記念写真を撮ったが、おそらく当時の天候のためであろう、鉄砧山の稜線は、背景にうっすらと見える程度であった。
許黄秀鸞は長男の許作宗を抱いている
大甲鳳梨の解散
大甲鳳梨罐詰商會は、四年にわたる抵抗を経たのち、戦時の原材料統制のために、結局は解散の運命に直面した。のちの植物愛碑は、建立されたばかりのころのように植物に囲まれてはおらず、周囲の地面には土石が露わになり、緑はもはやなく、その前に立つ人々は、毅然とした面持ちでレンズを見つめている。
大甲鳳梨の解散から四か月後、横山竹男は基隆市長に昇進した。

昭和十四年(一九三九年)二月十一日
鳳梨産業が統治のもとで興隆することを期して、台湾総督府は昭和十年(一九三五年)に、全島の鳳梨罐詰製造業者の合併の調整を進め、「合同鳳梨株式会社」を設立した。当時、大甲郡外埔庄六份に大甲鳳梨罐詰商會があった。これは唯一、官の方針に従わず、総督府の方針の外に独立して、部外の人物によって経営される商会であった。しかもそれは競争者として独立を保ち続け、その工場と農場も拡大を続けており、罐詰工場、自動製罐工場(新旧二工場あり)、農場も九十二甲の土地にまで増え、年産量は九十二万箱に達していた。これは業界の統制に多くの障害をもたらしていた。これ以後、総督府は機会あるごとに、その合併をそそのかしてきた。だが事変ののち、政府が鋼鉄および罐詰製造用のブリキの配給に問題を生じたことから、田端幸三郎殖産局長が極力協調して合併を進めた結果、大甲鳳梨の側も次第にこの提言を受け入れていった。のちに本年二月一日、東京において両者間の合併の調印が行われた。五十五万円の金額をもって、十日も経たぬうちに、総督府は大甲鳳梨の土地および地上物件などをすべて買収し終え、その事業を継承した。ここに、長年の懸案もこうして完全に消え去った。鳳梨産業はかくして一元的な統制を達成したのである。
許雲陽は写真の右端から数えて二番目

異郷人
東京へ逃れた許天徳は、かの地でずいぶん長いあいだ暮らした。その息子たちはこの間に次々と結婚して子をもうけ、許天徳は祖父となった。そのあいだも、許天徳の一家は頭山家との連絡を保ち続けていた。
許天徳の子孫たちの記念写真
中央の、白い髭と黒い髭をたくわえた人物が、それぞれ頭山満と許天徳
戦争の終わり
戦争の末期、年老いた頭山満は、なお各地の政治指導者と会っていた。
末永節(左から三人目)と大熊浅次郎(左から四人目)が、許家の人々と撮った記念写真
昭和十九年(一九四四年)、戦況が次第に傾き、東京の人々は次々と各地へ疎開していった。これがまた、許天徳の帰郷の念を呼び覚ました。許天徳は頭山満に頼んで当時の台湾総督に働きかけてもらい、無事に台湾へ帰って、長きにわたる異郷の暮らしに終止符を打つことができた。
視点を台湾に戻すと、引き締められる原材料統制と、ますます激しさを増す戦況のなか、外埔に残った人々もまた、疲れ果てているように見える。
外埔庄常設保育所の小学芸会開催記念

台中州産業組合幹部錬成会の記念

大甲鳳梨に入ってから許天徳が帰台するまでのこの間に、許雲陽の子供たちが次々と生まれた。
日本統治の後期、戦火は許家にまで及び、許雲陽の四弟・許雲従が大日本帝国に召集された。聞くところによれば、父の許天象は、許雲従が出発する前日、緊張のあまり眠れず、庭に一晩じゅう座り込んでいたという。
許天徳は前列の左端
許雲従は前列の左から二人目
許雲陽は前列の右端
右から三人目の許天象は、許作慶を抱いている
離合
頭山満は昭和十九年(一九四四年)十月に世を去った。
ボースは、日本の降伏から三日後、台北の松山飛行場での航空事故により命を落とした。当時、彼は台北から満洲へ飛び、ソ連との交渉・協力を求めようとしていたところであった。
許雲章は、米軍が原子爆弾を投下する前日、空襲のなかで世を去った。享年三十一であった。

戦争が早く終わったため、許雲従は大稲埕で、まだ船に乗らぬうちに、家へ帰ってよいと告げられた。彼はそのとき、身につけていた金をことごとく、傍らの戦友たちにふるまって祝杯をあげるのに使ってしまい、鉄山へ帰り着いたときには、一文も残っていなかった。
戦争の重苦しい空気に別れを告げ、許雲従が家に帰ったのち、許家にも慶事が訪れた。
光復
光復ののち、許天徳は鉄砧山に一基の孔子碑を建てた。孔子碑の碑文には、こう記された一節がある――
台民際曆象重光勝緣千載其誠其愉又必超越乎各地者矣 ——— 台湾の民は、暦象(年号)の改まるにあたり、光復によってふたたび光明を迎えた。これは千年来積み重ねられてきた善き縁であり、この誠なるよろこびは、きっと他の地の人々には味わいえぬものであるにちがいない。
「台湾の民衆は、年号の移り変わりを経て、光復によってふたたび光明がよみがえった。これは千年来積み重ねられた善縁であり、この誠摯なよろこびは、きっと他の地の人々には感じ取ることのできないものであろう」
民国四十年(一九五一年)に実施された三七五減租は、許家のような地主に多大な影響を及ぼした。民国四十五年、許天徳の妻・許林月が世を去った。許天徳が日本に滞在していたあいだ、台湾での彼の財産の大半は、許林月が切り盛りしていたのである。光復ののち、彼は戦時の混乱によって生じた財産の問題の処理に取りかかった。許天徳はたびたび国民政府に対して異議を申し立て、日本の植民地時代における大甲鳳梨の買収額は不当であるとして、適正な金額を勝ち取ろうとしたが、いずれも失敗に終わった。
許天徳は民国四十九年(一九六〇年)に世を去り、妻とともに鉄砧山に葬られた。彼の死後、頭山泉は台湾を訪れ、父がともに建てた石碑と、許家の友人たちを訪ねた。そして許家の発祥の地である鉄砧山をも訪れた。
頭山泉は、許雲陽をも訪ねた。
許雲陽は、光復ののち、民選の外埔郷長に二期にわたって当選したことがある。
台中県外埔郷第三期新旧郷長引き継ぎ式典の記念写真。許天徳(前列左から四人目)と許雲陽(前列左から九人目)の姿が見える
第一期郷長の任期中、許雲陽は外交部の駐台湾特派員の試験に合格すると、郷長の職を辞して台北へ赴任した。その在職期間はおおむね一九四六年から一九四七年のあいだにあたり、それゆえ二・二八事件を経験することとなった。事件が起きると、外省人の同僚はみな大陸へ逃れ、無傷でありながら救恤金を請求することができた。彼は役所のなかで唯一の本省人であったため、ついでに補償を求めると口にしたが、金が足りないという理由で、ぞんざいにあしらわれてしまった。外交部で二年を過ごしたのち、彼は外埔へ帰り、家業を継いだ。
大岳望
許雲陽は二〇〇八年に世を去った。五人の息子をもうけ、その三男の許作慶が、私の祖父である。私はよく祖父と一緒に古い写真を眺めた。その古い写真を整理する過程で、私は思いがけず、鳳梨園から鉄砧山を望む構図の一枚を見つけた。これほど印象に残ったのは、私自身もかつて、この角度から写真を撮ったことがあるからだ。鳳梨園は地勢の高い南側に位置しているため、北を望めば鉄砧山を遠くに眺めることができる。私にとってそれは、祖先の暮らした地を振り返る、一つのまなざしであった。私は思わず想像せずにはいられなかった――この写真を撮ったのは、いったい誰なのだろう、と。
のちに私は、ある口述の記録のなかで、とても興味深いことを目にした。許天徳の、日本へ移り住んだ子孫は、日本に帰化したのち、「大岳望」と改名したというのである。大きな山を見ながら、私の心にはすぐに、あの写真が浮かんだ。
いまの鳳梨園は、一面の工業地帯となった。許天徳がかつて住んだ邸宅には、もはや許家の人は住んでいない。植物愛碑は鳳梨園の奥深くに隠れ、世間に知られることもない。
二〇二二年の暮れ、あるあたたかな陽射しの冬の日に、私は祖父と伯父、そして許天徳の子孫とともに、鳳梨園へ植物愛碑を訪ねた。その日、私は彼らに自分の発見を語り、続いて写真のなかの場所へと連れていって、鉄砧山を望む一枚の写真を撮ってあげた。
文:李鎧揚、李威辰
校正:蔡佳桓
画像編集:李威辰
古写真の整理・提供:許瑞承、許瑞益
ブックデザイン:周芳妤